| 手術をさせてもらえる場所がない |
ある子供のエピソードをお話します。
この子はチョウスーウインという3歳の男の子です。ミャンマー中部のウインドゥインという町に生まれました。両親は小さな雑貨屋、主に駄菓子や小さなおもちゃを売って生計を立てています。
この子は生後1月のときに右の頸部に小さなしこりができました。それが月日を経るごとに徐々に大きくなり、ちょうど生後8ヶ月のときに近くの町で手術を受けました。
しかし、すぐにしこりは再び大きくなり始め、数ヵ月後には元の大きさよりさらに大きくなりました。そこで両親はマンダレーという場所にあるこの国で最もレベルの高いといわれている子供病院を訪ねそこで手術を受けることになりました。
このときこの子を手術した医者はこの国で最も有名だった小児外科医でした。この小児外科医はこの子の腫瘍の成長の速さや手術後の再発の事実から、この子の腫瘍は悪性のものであろうと判断しました。
最初の手術時に調べた腫瘍の性質は神経線維腫という良性のものでした。
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しかしこのような腫瘍は時折、良性から悪性に性質を急に変えることがあり、この小児外科医の判断はおかしなことではありません。そしてこの子は悪性という前提で再び手術に望みます。
この時点で腫瘍は大きく右の頸部を被いながら固く頸部に癒着していたことは想像に難くありません。このときの手術で腫瘍は一部のみ摘出され組織を再び調べます。
危険を犯し手術をしてもおそらく悪性なので確実に再発してくるという考えと、頸部腫瘍は固く癒着しているために全部とることは命の危険があるという考えがあったと思われます。
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組織をとって悪性ならば抗がん剤による化学療法をすべきと考えていたのかもしれません。しかし、通常、この腫瘍は悪性化した場合は抗がん剤がほとんど効きませんので、手術による全摘出が最も効果的な方法であると思われるのですが。
そして、取った腫瘍の組織診断はまたしても、神経線維腫という良性のものでした。
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しかしこの時点で病院側は腫瘍の手術は危険で不可能という結論に達します。そしてなす術もないまま家族は自分の町に帰ることになりました。
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ある時一人の日本人医師が彼らの町から数十キロのところに来て治療をしているという噂を聞きます。
両親はそうしてその医師の元を訪れます。それが彼らと私の初めての出会いです。当時2歳のこの子は、毎日両親に「お父さんお母さん、僕の首を治して下さい」と言っていました。首の腫瘍はその大きさを日に日に増大し、その重みのために一人で首を持ち上げることが既にできなくなっていました。
この当時私は、簡単な手術を自分の借家を改造し、手術室をつくり行っておりましたが、麻酔器はなく、静脈麻酔や局所麻酔、腰椎麻酔などを使いほとんど簡単な器機のみで行っておりました。電気事情も悪く、毎日数時間も停電し、発電機を回して電力を得なければなりませんでした。
しかし、その電力では電気メスなどの手術器機を使うには全く不足し度々危険な目に会いながらも続けているような有様でした。
ですからこのような危険な手術を行う場合、麻酔器と麻酔医の存在が不可欠で、なをかつ輸血の準備、手術後の人工呼吸器の準備まで整ってはじめて手術を行うことができるということになります。
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このような準備もなしに手術を行うことは、まるで海洋図や羅針盤、食料もなしに荒海に長い航海に乗り出すようなものです。このような状況から、私は数ヶ月準備を整えようとしましたが、結局、麻酔器は半年経っても手元に届かず、別の方法を取らざるを得ないようになりました。
この間にも腫瘍はその大きさを増し既に、頸部正中を跨ぎ気管を圧迫し始めていました。このままではあと数ヶ月で気管圧迫による窒息死となることは容易に想像できました。
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| 私はこの国の政府から公式にマンダレーの子供病院で手術をできる許可を取っていましたので、結局そこに連れて行って私が執刀し手術を行うことを決意しました。この時点で子供の両親には前出の2回の手術によって、経済的余裕は殆どなくなっていました。
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ですから、この子の手術代も全て私が面倒を見るということでようやく手術にこぎつけることができることになりました。
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ところが、ここで思わぬ問題が発生します。
マンダレー子供病院が、私の執刀でも手術場所を提供することを拒んだのです。私とこの病院や病院のスタッフはとてもうまく関係ができていました。ではなぜ拒んだのか。答えは、この子が手術中に死んでしまう可能性があるということでした。
この国ではもし手術中に患者が死ぬようなことがあると噂になって、病院の評判を落とすという社会的な理由からでした。
何度もお願いしましたが、結局許可が下りず手術を諦めざるを得なくなりました。
私はここに来てからの経験やこの時の経験からもし医者が患者の治療を放棄してしまったら、患者やその家族はなんと心細く辛い思いをしなければならないかを嫌というほど身近で感じてきました。
その後、治療を受けれずに再び引き返すこととなり、この子と家族には麻酔をかけてくれる医者を探すまで待っていてほしいと言い残し別れました。
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| しかしこの時点で私はこの子のことを、この子の命を諦めていました。なぜならこの国の医者たちの中で様々なリスクを犯してでも麻酔をかけてくれる医者など望むべくもなかったからです。ましてやこのヒエラルヒーのはっきりしている国で一番レベルの高い病院が拒否した手術を受けてくれるようなところなどあるはずはなかったからです。
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その一月後私は一旦ミャンマーを後にして日本へ帰ることになりました。おそらく数ヵ月後にはこの子は亡くなっているだろうと後ろ髪を引かれつつ。
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それから数ヶ月後のある日、再びミャンマーに入っていた私は、ふとしたことからある新聞社が難病の子供にお金を出し手術を日本で行わせてくれる基金を見つけました。そしてこの忘れようとしていた子供にこの基金が使えたならばと考えたのでした。しかし、最後に別れてから既に5ヶ月が過ぎようとしていました。私は頭ではもうこの子は死んでいるだろうと考えました。
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しかし、一度会いに行ってみようと思いました。住んでいる町の名前は分かっていましたが、住所は分かりませんでした。私たちがいる町から150キロほど離れた町でした。母親の名前を頼りに探してようやくこの子のうちを見つけました。
母親の顔、父親の顔、確かに見覚えのある顔がありました。あの子は生きているのかと恐る恐る聞いてみました。
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するとある方向を指差しました。そこには小さな鉄製のかごに入れられ耳元に置かれたカセットテープから流れる音楽を聞かされていたあの子が確かにいました。それを発見したとき私の正直な感想は「なんと、生きていた!」という驚きのものでありました。
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しかしその顔は以前と違い少し浮腫んでいました。
そして首に当てられた大きなガーゼ。それを静かに取ってみると、そこには大きな腫瘍が、むき出しになっていました。最後に見たときの何倍にも膨れ上がり、そして大きく破裂し、そこから出血を起こしていました。
あまりのむごさに皆が一時言葉を失っていました。そしてその僅かな一瞬で私は多くのことを悟りました。この期間にこの子が経験してきたこと。家族の苦しみ悲しみがどれ程だったかということ。
周りの人たちがどれほど心を痛めていたかということ。そして私は今一体どこに行ってしまったのかと考えていたことなどを。
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私たちが現れる数日前にこの子が両親に何度も日本の医者から電話がかかってきたかと尋ねたそうです。その数日後に本当に我々が現れたので両親はびっくりしていました。そして私は決断をします。お金は本当にもらえるかどうか分かりません。
もらえない可能性のほうが多いのです。それでも、お金の当てもなく日本に連れて帰るのか。
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もしお金が集まらなかった場合、ジャパンハートの来年以降の活動費も廻さなければならない、それだけでなく私が大きな負債を抱え込む可能性もある。そうなったとき団体が大きく傾いたり、さらに壊れてしまうこともある。
それでもこの子を日本に連れて帰って手術を行うのか。私の傍らでは若い日本の医者や看護婦たち、そして共に働くミャンマー人スタッフたちも固唾を飲んで私の決断を待っている、、、、。
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そして私は静かにこの子の頭をなぜながら決断をしようとしていました。
このとき私を取り囲む大きな輪の中でこの子やその親たちのみならず、私の後ろから私の背中を見て付いて来ている日本の若い医者や看護婦たちのことを同時に考えていました。私がこれから下す結論で、家族やこの子の運命も大きく変わるかもしれない。
そしてこの若き日本人たちの将来ももしかしたらこの決断に大きく左右されるかもしれない。そう感じていました。
そして、私は静かに皆にこう告げました。「この子を日本に連れて帰り、手術を行います。これから数ヶ月はこのたった一人の子のためだけに皆で動きます。」それを聞き終った時の皆の目が輝いた瞬間を今でも時折思い出します。
そして続けてこう言いました。「お金のあてはほとんどありません。もしかしたらこの判断が団体の寿命をも縮めてしまうかもしれません。しかしそれでもやらねばならないこともあります。
心がまず動かなければ、人も物もお金も動きはしない。まず心を動かす。そこから始めましょう。」
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そして、このミャンマーという国で2ヶ月弱という短期間に全ての準備を整えて日本での手術にこぎつけました。
かつて別の団体は病気の子を日本で手術を受けさせるためにこの国を連れ出すのに、3年以上かかっていました。勿論、今回はそんな時間の余裕はありません。
この子の命はもってあと6ヶ月、それ以内に確実に死は訪れます。私は今回の経験を通じて、何がこのように短期間でこの来日を可能にし、何が別の団体での3年以上にも及ぶ時間を費やす結果となったのか、ということを考えたとき、結局、人の命に責任を持つ覚悟や心があるのか、という命題に集約されるのだと思います。
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私はこの子の命を引き受けました。
もしお金が集まらなければ、借金をしてでも自分が出す覚悟でした。この子と関わった数ヶ月間は全てこの子を中心に時間が回転していました。人は自分の子であれば多分私と同じにしたのだと思います。
しかし、所詮、他人の子、他人の運命。それが、少しづつ少しづつ結果に現れ、やがて大きな差になります。
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他の団体の人たちは多くの人数が関わったにもかかわらず、3年以上も費やした背景にはこの様な意識の違いがあったのだと思います。
人の命に責任を持つ。そのために必死になる。そのことが理解できなかったのだと思います。
大きなことを考える前に、一人一人の人生にしっかりと焦点を当てる。それこそが我々の最も大切にしているものことです。
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そして日本で手術が始まりました。
かつての恩師を頼っての手術でした。この先生は私のこの懇願を何も言わずに快く受け入れてくれました。この様な人々の無形の暖かい助けによってやがて1人の命が死から生へと大きくその舵を転換していきました。
その大きな転換は、まずは私たちの中で始まり、最後に日本に付き添ったこの子の母親へと辿り着きました。 |
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この数ヶ月、この子の家族はこの子の死への準備を心の中でしてきました。日本へ来てもなを何日もの間、母親の心の中は死の比重で大きく占められていました。
しかし、少しづつ少しづつ生が動き始めたのです。そして、手術が始まりました。決して簡単な手術ではありませんでした。頸部をほぼ8割覆い尽くした腫瘍は深く頸部に食い込み容易には摘出できるものではありませんでした。
しかし5時間の後、ほぼ全ての腫瘍を取り終えて無事手術が終わりました。
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この手術に関わった医師や看護婦は11人になります。
皆がただこの子のために生きた5時間でした。思い起こせば、ミャンマーから出るまでの間、本当に多くの日本人の方々に協力していただきました。
大使館の方々も本当に驚くほど短期間に全てを準備して頂き、ミャンマーから日本に向かうことができました。日本に来てからも多くの日本人やミャンマー人の方々が、この子のために祈り、励まし力づけてくれました。
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一体、何人の方々がこのこのために関わったでしょうか。全て尊い力でした。来日から35日目夜、この子は再び生きて祖国へ帰っていきました。
この子に関わった多くの方々が実は、その後に心満たされ、尊い時間を過ごしたことを感じています。神様や仏様は世界をそんな風に創っているのかもしれません。自分以外のもののために尽くした者にこそ、かけがえのない豊かさを与えてくれるのだと思います。
私たちジャパンハートのメンバーは、この子と共にミャンマーに再び降り立ったとき、本当にすばらしい時間を過ごせたのだと感じました。
この子を空港へ出迎えた父親がこの子をその胸に抱いたとき、生きて帰ったわが子をやさしく目を細めながら抱いているその風景は、まるで一枚の絵のように、雑踏の音も失い、周りの景色も色あせ、時が止まったようでした。
そしてそれを見ている私たちは計り知れない満足感に包まれたのです。
その瞬間こそ、まさに「永遠なる現在」というに相応しい時間でした。この光景はこれからも私たちを生涯にわたって励まし続けることと確信します。 |
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